旅を終えて

 天保14年(1843)の「宿村大概帳」によると、日光街道は日本橋から日光まで約140km、日本橋から宇都宮までは日光街道と奥州街道は重なるので、奥州街道は宇都宮から白河まで約84kmある。二つあわせると約224km。この距離は前回歩いた甲州街道(210km)とほぼ同じだ。甲州街道の旅は15日間、寄り道の歩数計で約315kmになった。
 この距離を考えると日光・奥州街道の日程は15~16日ぐらいで終わるだろうと思った。起伏のない関東平野が主なのでもっと早いかもしれない。結果は、寄り道の歩数計で約346km、16日間で終了した。過去の街道歩きの勘があたった。
 そこで、日光街道、奥州街道を歩いて感じたことをいくつか述べたい。
  1. 日光街道は日本橋から宇都宮をへて日光にむかう。東海道、中山道、甲州街道は西にむかって歩いたので、顔は西日にまともにあたった。今回のルートは秋から冬にかけて北上して歩いたので、それはなかった。また日光街道は東京・日本橋から埼玉県東部、茨城県、栃木県へとつづく。日本で一番広い関東平野なので起伏はほとんどなかった。
  2. いろいろな町を通過したが、江戸時代の宿場をまちづくりに活かした自治体は多かった。
    例えば、足立区千住のヤッチャバ通り、街の駅(休み処)、春日部市の粕壁宿の標柱(宿めぐりのルート、解説板など)、古河市の史跡案内板は常夜灯風になって屋根部分に小さなソーラーパネル、那須町芦野宿通りの石塔に屋号があるなど、かつて宿場町であったことをかもしだしている。
  3. 日光・奥州街道の一里塚は、原形に近い両塚は「小金井一里塚」のみ。あとは片側だけの塚、復元した塚、公園に移動した塚などを目にするだけだった。首都圏の一里塚は開発の波に飲みこまれてしまったといっても過言ではないだろう。かつて一里塚は旅人の距離の目安でもあったが、現在は車で移動して、歩く人をほとんどみかけなかった。
  4. 日光といえば、杉並木・東照宮のイメージがすぐ浮かぶ。徳次郎宿からの車道は下、両側の土手(歩道)は高い位置にある。この構造はいつごろなのか不明だが、歩行者にはありがたい。やがて「並木寄進碑」がある。ここから杉並木街道はつづく。「特別保護地域・保護地域」の指定はあっても、車の排気ガス、振動、老木などで杉並木は毎年減少しているという。世界に誇る日光杉並木街道の保護活動は大きな課題だ。
  5. 奥州街道の白河では、戊辰戦争の「戦死墓」「供養碑」を何カ所かみた。今年(2018)は戊辰戦争から150年目。旧幕府軍と新政府軍の戦闘は慶応4年(1868)1月の「鳥羽・伏見の戦い」から明治2年(1869)5月の「五稜郭の戦い」までつづいた。とくに会津藩を討とうとする新政府軍に対して、東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結び戦った。この幕末から明治にかけての日本の歴史をどうみるか、あらたな宿題ができた。
※これで五街道の旅は終わった。それぞれの街道の旅には思い出がたくさんある。街道ではいろいろな人にお世話になった。自分ではまだまだ若いと思っても、足がもつれることがある。人のいない山のなかで道に迷う。このときは元に戻る。70代の年齢を考えて、あわてないように心掛けた。自分の足で、一歩ふみだすと必ず新しい発見がある。これが人生の糧になる。ぼくの「五街道ホームページ」は、新しい発見の「備忘録」になった。読者のみなさまのご参考になればと思う。


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