用語集

伝馬町牢屋敷

 日本橋小伝馬町に江戸時代から明治8年まで約270年間つづいた伝馬町牢屋敷があった。現在の大安楽寺、十思公園などがある地である。入牢した者は数十万人といわれる。敷地面積は約2600坪余、土手を築いて土塀を廻し南西部に表門、北東部に不浄門があった。江戸時代の牢屋は、元来未決囚を入れるところで、現代の刑務所とは違う。牢舎は揚座敷(旗本の士)、揚屋(士分僧侶)、大牢(平民)、百姓牢、女牢の別があった。身分によって牢屋の差があった。「牢屋の沙汰も身分次第」の時代だ。小伝馬町の牢屋は町奉行の支配に属していたが、実際は牢内役人の下に管理された。牢屋は掃除しても多人数の人の息や不浄所のため悪い臭いが漂っていた。牢内のいじめによる牢死は「見て見ぬふり」だったという。

利根川の舟橋

 日光道中の利根川には橋はなく、栗橋から中田へ渡し船を利用した。この利根川の川渡しは「房川渡し」といわれた。渡船の実態は、栗橋宿では渡船二艘、茶船(人・荷物)五艘、馬船二艘があり、三組にわかれ毎日9人で務めたという。この渡しでは将軍の日光社参のときに臨時の船橋が架けられた。享保13年(1728)の吉宗の社参では、「川幅142間に船51艘を浮かべ、各々を鎖で連結して、その上に菰、土をのせ砂をかぶせ」たという。船橋といえども道路とほとんど変わらない。安永5年(1776)の社参では「舟橋はまず高瀬舟を網で連結し岸の大杭に縛りつけ、その上に丸太を縦横に並べて枠組みをつくり、‥‥」と大がかりな工事をした。大工事であっても、将軍の通行が終わると直ちに撤去された。

将軍家の日光社参

 徳川家康は元和2年(1616)に亡くなった。命日(旧暦4月17日)にあわせて、家康が東照大権現として祀られている日光東照宮に、将軍が参詣することを日光社参という。将軍家としての日光社参は19回を数える。とくに3代家光は10回、2代秀忠は4回、4代家綱が2回と江戸時代前期には16回にも及んでいる。その後8代吉宗の社参は65年ぶり、10代家治は48年ぶり、12代家慶は67年ぶりと間隔は長くなっている。天保14年(1843)の家慶の社参時は総勢14万人という行列だった。まさに幕府の威信をかけた国家行事といえる。江戸を出発した将軍家の行列は、日光御成道を通り、岩槻城をへて幸手で日光道中に合流、古河城、宇都宮城宿泊の3泊4日が通例。諸大名や公家の日光例幣使一行の参詣もある。朝鮮通信使一行は3回参詣している。さらに庶民も多く日光東照宮に参詣している。

日光杉並木街道

 日光杉並木街道は、日光街道、例幣使街道、会津西街道の三街道からなる総延長37kmに及ぶ並木道で、わが国で唯一、国の特別史跡・特別天然記念物の二重指定を受けている。日光街道の杉並木入口には「並木寄進碑」がある。この寄進碑は、並木の起点となる神橋畔および各街道三カ所の計四カ所に建っている。杉並木は、徳川家の家臣であった相模国玉縄藩主の松平正綱、正信親子二代により、1625年から二十数年の年月をかけて植えてきた。杉の木は2013年度で1万2350本がある。だが年々自然災害や杉の老木化、車社会の影響などで減少している。杉並木街道を歩くと、杉の大木に「杉並木オーナー 〇〇〇」と名札がつけられている。日光杉並木保護に賛同する個人や法人が、杉1本1000万円で購入して、その運用益で保護活動に充てている。2017年3月時点で561本の杉に423人のオーナーがいる。オーナーが解約したい場合は、いつでも栃木県が買い戻しするという。

日光例幣使街道

 日光例幣使街道は中山道の倉賀野(高崎市)から分岐し、太田をへて下野国に入り、犬伏・富田・栃木・合戦場・金崎などをへて楡木(鹿沼市)までの約96kmで、さらに日光道中壬生通の今市へ。いまでは楡木から今市までの道も例幣使街道と呼ばれている。日光例幣使は徳川家康が日光に祀られてから朝廷の勅使が派遣された。朝廷からの例幣使は毎年日光東照宮へ幣帛(へいはく・神前の供物)を奉納した。奉納は、正保4年(1647)から慶応3年(1867)の221年間一回の中断もなく継続された。例幣使一行は京都を出発して中山道を通り、倉賀野から日光にむけて歩き、4月15日に日光に到着するのが慣例で、翌16日(17日が命日)に幣帛を奉納し、復路は日光道中、東海道をへて京都に戻った。通常の例幣使一行は50~60人であったという。

白河の戊辰戦争

 白河市に入ると、戊辰戦争の碑、墓が多くある。なぜだろうか。白河の戊辰戦争は大政奉還後の奥羽越列藩同盟(旧幕府軍)と薩長大垣などの新政府軍との戦いだった。もともと戊辰戦争は鳥羽伏見の戦い(慶応4年・戊辰の年1月)から函館戦争の終結(明治2年5月)まで約1年半つづいた。白坂地域には戊辰戦争で戦死した大垣藩士の碑がある。また慶応4年5月1日、市内九番町の稲荷山一帯は旧幕府軍と新政府軍との激しい戦闘があった。この地で亡くなった会津藩士のための「戦死墓」などがある。この日だけで会津藩や仙台藩などの諸藩は約700人が戦死したという。皇徳寺境内には戦死者供養碑、長州藩や大垣藩の墓もある。さらに奥州街道分岐点の女石追分には「仙台藩士戊辰戦没之碑」があった。戊辰戦争の結果、ついに旧幕藩体制は崩壊し、明治政府による中央集権国家へと移行した。2018年は戊辰戦争から150年になる。

※この用語集は『江戸の刑罰』(石井良助・中央公論社)、『歴史の道調査報告書 第三集 日光道中』(埼玉県教育委員会)、『栃木の日光街道 荘厳なる聖地への道』(日光街道ルネサンス21推進委員会)などを参考にした。なお五街道の基本的用語については「寄り道・東海道」「寄り道・中山道」「寄り道・甲州街道」を参照されたい。

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