朝7時半すぎ信号・氏家までもどり歩くことにした。まず西導寺に寄ってみた。この寺は12世紀に氏家氏の始祖が建立したという。江戸時代の弥勒堂などがある。近くの光明寺には県指定の宝暦9年(1759)に鋳造された3m余の青銅造不動明王坐像が築山上に鎮座している。堂の奥上にあるので全体像はわかりづらい。口をつぐみ、目をつりあげた不動明王はちょっと怖い。
天保14年の「宿村大概帳」によると、氏家宿の町並みは約1000m、本陣・脇本陣各1軒、旅籠屋は35軒、宿人口は879人がいた。ここ氏家は会津中街道や原方街道など脇街道が分岐するなど交通の要衝でもあった。いまは宿場の面影はない。
しばらく歩くと左側に村上家の棟門がある。この門に残された線は、享保8年(1723)8月の五十里洪水の水位痕(約1.8m)だ。その並びには明治時代の実業家・瀧澤喜平治の邸宅がある。大きく立派な長屋門だ。道をすすむと日本橋より数えて32番目の狭間田の一里塚が個人宅の敷地内にある。お断りして入ると塚の上に屋敷守の社がある。残念ながら原形がくずれて塚とはみえない。
やがて道は史跡・奥州街道(古道)の入口に着いた。この古道はたびたび山腹が崩壊するなどしたため明治13年(1880)に迂回路ができた後は使用されていない道だ。600m余の長さだが、木立があり未舗装の薄暗い道はなぜかなつかしい。街道、とくに中山道の峠道を歩いたときと同じ感覚だ。古道の出口には庚申塔などがあった。
連城橋がみえてきた。もう喜連川宿(さくら市)の入口になる。江戸時代は木橋が荒川にかかっていた。喜連川宿は足利尊氏の流れをくむ喜連川足利氏の城下町(陣屋町)。実質は5千石だが、格式は10万石の大名扱いであった。なぜ徳川家康は喜連川足利氏を大切にしたのか。家康は「清和源氏で新田氏とし、自分たちはその末裔とした系図を作成」、そのため源氏の流れをくむ家柄をないがしろにできなかった、といわれている。
喜連川宿は本陣と脇本陣が各1軒、旅籠屋29軒、宿人口は1198人がいた。宿場の面影はほとんどないが、まず喜連川足利氏第6代藩主が奨励した「寒竹囲生垣」を見学した。板塀より寒竹(オカメザサ)は経済的で利用価値があるとした。いまもきれいな生垣が何軒かある。また近くには「御用堀」(用水路)がある。江戸末期、防火と農業用水を目的に整備されたものだ。
龍光寺には喜連川足利家歴代藩主の墓所がある。案内板には「石塔54基のほか石灯篭があり、14代にわたる藩主御台所嫡子等の墳墓」と書かれている。近くには陣屋跡がある。大手門のなかは、さくら市喜連川庁舎がある。現在の門は1991年に復活したものだ。宿のはずれに享保6年(1721)の道標「左在郷 右奥州海道」がある。
喜連川から佐久山までの距離は2里30町余もある。ここから何キロも県道(旧陸羽街道)を寄り道もなくひたすら歩くことになる。きつれ川幼稚園、高齢者施設をすぎると、もうすぐ大田原市に入る。市境手前に小さな赤ちゃんを抱く「ほほえみ仏」に気づいた。涅槃像(ねはんぞう)のようなものもある。いつ頃の年代だろうか。
さらに歩くと右側に「与一の里名木選」の案内板がある。みると高久宅のツツジ群とあり、推定樹齢200年・樹高5mとある。いよいよ佐久山に入ってきた。16時すぎの佐久山のバス停まで間にあうであろうか。JR野崎駅行きの市営バスは一日3便(朝2、夕1)しかない。庭にいた人に「この近くにバス停はありますか」「すぐだがどこまでいくの?」「野崎駅までです」「暇だから駅まで送ってあげるよ」となった。ご親切に甘えた。
次回は佐久山宿の入口から歩く予定だ。駅からのバスは朝便がなく午後しかない。結局はタクシーを使って佐久山宿にいかざるをえないようだ。