宇都宮駅西口から約50分で石那田バス停に到着。きょうから一泊二日で日光の神橋まで歩く予定だ。日光街道は場所によってなぜか歩道は土手の上だ。歩行者にはありがたい。とはいっても、歩いている人はいない。
歩いてすぐに大谷石でできた石仏「うらない仏」がある。阿弥陀像らしいが風化が激しい。石仏の前に丸い三個の石がある。石仏に願をかけて、いずれかの石を持ち上げて、軽く感じれば願いが叶うという。持ち上げてみたが重くはない。このあたりから頂上に積雪がある山がみえてきた。
上小池の一里塚をすぎてから山々がみえてきた。珍しく歩いて来る人がいる。「あの山々の名は?」とお聞きすると、「あれは日光連山。左は男体山、右は女峰山、真ん中は大真名子山、その右は小真名子山、‥‥」と詳しく教えてくれた。雑談のなかで、この人は山歩きが趣味とのこと。すらすらと日光五山の名がでた。
数キロ歩くと「並木寄進碑」(慶安元年・1648年建立)がみえてきた。この「並木寄進碑」は、ゴールの神橋畔にもあるはずだ。いよいよ「特別史跡・特別天然記念物(国の二重指定)の日光杉並木街道」だ。寛永2年(1625)、徳川将軍三代に仕えた松平正綱が熊野杉を植えたのが始まり。正綱、正信親子2代により20数年かけて植林した。杉並木は日光道中、例幣使街道、会津西街道をあわせて延べ約37kmになる。石碑は「日光神領」(日光山の領地)の境界にも建てられている。
やがて道は大沢宿(日光市大沢)に入った。江戸から19番目の大沢宿は人口278人という小さな宿場であった。大イチョウの王子神社、六尺藤の竜蔵寺を参拝して再び杉並木へ。杉並木街道も「特別保護地域・保護地域」にわかれている。排ガスや振動から杉並木を守るため車両通行止もある。
栃木県の「日光杉並木街道の歴史と現状」によると、「現在は12350本ほどで、昭和36年に日光東照宮が並木台帳を作成した当時の本数16479本と比較すると約4000本減少している」という。樹齢300年以上の杉には癒着した杉、根幹部が空洞で大人が数人はいれる通称「並木ホテル」杉などさまざまだ。
杉並木街道は東武日光線をすぎると、やがて例幣使街道との分岐点にある追分地蔵尊に着いた。高さ約3mの石地蔵は室町時代の造営という。例幣使街道は、日光東照宮の大祭に朝廷から遣わされた例幣使が通行した道だ。以前、中山道を旅したとき倉賀野からの例幣使街道があったことを思いだした。ちなみにいまの日光街道の杉並木は19.2km、5003本の杉だが、例幣使杉並木街道(今市から小倉まで)13.9km、6326本の杉がある。もうひとつの会津西街道(大桑から)は3.9km、1021本がある。
持参した「日光街道・おかちマップ」をみると、近くに今市(現日光)市立歴史民俗資料館がある。図書館の隣だか、今年(2017年)4月に移転したと張り紙がある。約1キロ歩いて歴史民俗資料館を訪ねた。この建物は、二宮尊徳記念館と日光市歴史民俗資料館と兼ねている。職員に「日光街道の資料・パンフレットはありますか」とお聞きしたが、残念ながらなかった。敷地内には二宮尊徳の「報徳役所書庫」が移築されていた。
まだ午後3時半だが街をぶらりして、追分地蔵尊がみえるビジネスホテルへむかった。