旅日記

11月25日(土)今市→鉢石(日光)へ 13.5km

 朝7時半すぎ宿をスタート。まず近くの報徳二宮神社を訪ねた。安政3年(1856)に二宮尊徳は70歳で亡くなったが、墓石は建てるなと遺言。その後、有志らが報徳二宮神社を建てた。墓石もある。二宮は小田原の農民の子だが、幕臣に登用され日光社領89カ村の開拓に着手した実践的農政家であった。
 さらに阿弥陀如来を本尊とする如来寺に寄ってみた。寛永9年(1632)、徳川家光は日光社参時の休泊施設「御成御殿」を如来寺境内に建てた。また二宮尊徳の葬儀はこの寺で行われた。今市宿は天保14年(1843)の「宿村大概帳」によると、町並み7町21間、宿人口は1122人、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋21軒があった。いまは宿場の面影はまったくない。
 ふたたび杉並木になった。並木の右側は杉並木公園になっている。公園には朝鮮通信使今市客館跡碑がある。江戸時代、朝鮮通信使は12回来日している。そのうち3回(1636年、1643年、1655年)、使節団200人が日光を訪ねた。一行は将軍の日光社参なみの歓迎をうけたという。また公園には大水車(直径10m、幅80cm)が回っていた。こんな大きな水車ははじめてみた。天保元年(1830)に建てられた旧江連家(約90坪)の立派な民家もある。
 この近くの杉並木に日光道中最後の34里目の瀬川の一里塚があるはずだ。土手はどれも同じにみえて、案内板もなく、とうとう見つからなかった。さらに歩くと右手に薬師堂がみえてきた。入口には石造りの梵鐘がある。裏手には男性の陽物が祀ってある。七里に着いた。水路には豊富な水が流れている。日光市七里には「並木太郎」という杉の巨木がある。案内板には「周囲5.35m、樹高38m」とある。さらに歩くとJR日光駅、東武日光駅も近い。「日光の社寺」まであと数キロだ。少し早いがここで近くの食堂で昼食休憩。
 ちょっと寄り道して「虚空蔵尊」を訪ねた。日光開山の勝道上人が明星天子を祀ったのがはじまりという。いま残るお堂は元禄5年(1692)の建立である。
 もとにもどると左に旅館のような建物がある。これは日光市役所日光総合支所だ。1919年に日光を訪れる外国人観光客のホテルとして建てられたが、ホテルとしては使われなかったという。1954年から庁舎として使われている。建物は国の登録有形文化財だ。
 このあたりは日光社寺を目のまえにしての鉢石宿だった。天保14年の「宿村大概帳」によると、本陣2軒、旅籠屋19軒、宿人口は985人がいた。鉢石(はついし)の地名になった石は路地裏にあった。鉢をふせたような形状の直径2mほどの石が宿場の由来だという。
 ついに午後1時前、神橋にゴールした。きょうの歩数計はこの橋でクリアにした。橋を渡ると階段脇に「並木寄進碑」がある。
 まだ時間はたっぷりある。世界遺産の「日光の社寺」を見学した。まずは日光山輪王寺。この寺の三仏堂は修復中だが、見学はできた。つぎは日光二荒山神社。最後は日光東照宮。入場券売り場は長蛇の列だ。なかに入ると人、人、人で混んでいる。絢爛豪華な社殿だ。
 奥社には家康の墓所がある。急な階段を上って奥社宝塔を見学した。家康は「日光山に自分を祀ることにより、八州の鎮守となる」と遺言を残し、二代将軍秀忠が東照社を建立した。三代将軍家光はいまの社殿に造りかえたという歴史がある。

▼これで五街道のひとつ日光街道(日光道中)の旅は終わった。日本橋から日光までの距離は約140km。寄り道しながらぼくは10日間かけて歩いた。ちなみに現地発・現地着で測った歩数計(一歩67cm)の距離は約220kmになった。残るは奥州街道(奥州道中)だ。奥州街道は日本橋から宇都宮まで同じルートなので、次回は宇都宮から福島県の白河をめざすことになる。


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