旅日記

12月6日(水)宇都宮→白沢→氏家へ 25.3km

 今朝は真冬並みの寒さだ。自宅近くの下山口駅から朝一番で宇都宮へ。午前8時すぎ日光街道と奥州街道の分岐点(追分)をスタート。きょうから奥州街道の旅が始まる。都橋を渡り右折して旧街道を歩く。
 宇都宮二荒山神社の大きな鳥居がみえてきた。急な石段(95段)を上ると立派な山門と本殿がある。数人の神職の人が境内の落ち葉を掃いている。「日光の二荒山神社と関係はありますか?」とお尋ねしたが、「両社の関係は古くから諸説があり、いまだ明確になっていません」「日光の二荒山神社(ふたらさん)、宇都宮の二荒山神社(ふたあらやま)は読み方も違います」と。神社の冊子によると、「日光は山岳信仰で宇都宮は平地で農耕を営む祖先信仰で二社は別個のもののようだ……」と書かれている。どちらも1200年以上の歴史ある古い神社だ。神社にはいろいろな神様が祀られている。ここ宇都宮二荒山神社には12の末社(安産、醸造、学問、商業の神など)があるという。
 参拝を終えて街道にもどり、近くの清厳寺を訪ねた。この寺には鎌倉時代(1312年)の高さ3m余の鉄塔婆(国指定重要文化財)があるが、残念ながら保管庫にありみられなかった。
 田川の幸橋を渡ると交差点に豪壮な建物がみえてきた。これも国指定重要文化財の旧篠原家住宅だ。江戸時代から醤油醸造業や肥料商を営んでいた商家で、現在の建物は明治28年の建築。一階と二階あわせて100坪ある。室内を見学すると大黒柱、箱階段、帳場、二階の大座敷など、当時の豪商の生活ぶりが想像できる。
 ふたたび県道をひたすら白沢宿(宇都宮市白沢)にむけて歩く。バス停地蔵前がある。近くに地蔵があるはずだが、みあたらない。ご近所の人が5~6年前移動しましたので案内します、と。「首切地蔵」は住宅地の一角にあった。享保8年(1723)の年号が刻まれているというが、なぜ首切地蔵なのか解説がなくわからない。
 さらに歩くと、左側に王子マテリアの日光工場がみえてきた。もうすぐ白沢宿に入る。右手に白沢地蔵堂がある。鎌倉時代の御家人・伊沢家景が東北にむかう途中、子どもを亡くして、この地で石塔を建てたという伝説がある。地蔵堂脇には古い五輪塔などがある。
 天保14年の白沢宿は、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋13軒、宿内人口は369人がいた。いまは宿場の面影はほとんどないが、町並みの両側には水路が流れ、水車がまわっている。近年修景がされたのだろう、とても落ち着いた町並みだ。
 やがて狭い西鬼怒川に着いた。枯草のなかに小さな標識で「江戸時代・鬼怒川の渡し」と案内板がある。それらしき船着き場を確認したが、その昔ここから小舟で物や人を運んだにちがいない。白沢の一里塚址(奥州街道白沢宿の会建立)をみてさらに歩く。
 長い土手を上がると、鬼怒川にかかる阿久津大橋がある。水量は多くないが大きな川だ。この鬼怒川(約177km)はやがて利根川に合流する。この鬼怒川にも舟運の「渡し跡」の立札があった。
 橋を渡ると土手下の河川敷に囲いがある。「なんだろう?」と下りてみると、「ミヤコグサの管理地」の看板があった。それによると「ミヤコグサはシルビアシジミ(蝶)の食草になっている」「この蝶は明治10年(1877)7月、上阿久津で初めて発見された。発見したのはイギリス人の英語教師で、蝶の研究家だった」という。
 さらに歩くと勝山城跡が左手にある。慶長2年(1597)に廃城となった中世の城で、鬼怒川の崖に面していた。勝山城本丸跡脇の「さくら市ミュージアム」に寄ってみた。この博物館で、さくら市の紹介、奥州街道のマップなどをたくさんいただいた。すでに午後4時すぎ、いまの時期は日没が早い。ちなみに、さくら市は2005年3月に氏家町と喜連川町の二町が合併して誕生した約4万5千人のまちだ。
 氏家宿(さくら市)までの旧街道の道を急いだ。両脇は田んぼの狭い道を歩く。左手に「お伊勢の森・奥州街道」の標識がある。伊勢神宮の内宮・外宮その他の末社を勧請したものが祀られている。その昔このあたり一面が森であったという。
 やがて馬頭観音や道標がみえてきた。もう氏家宿の入口が近い。暗くなり町並みがよくわからない。きょうは奥州街道沿いのビジネスホテルに宿泊して、明日朝一番で信号・氏家までもどり旧宿場を見学するようにしたい。


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