旅日記

9月22日(金)日本橋→千住へ 17.0km

 朝7時の日本橋。きょうから千住、古河、宇都宮などをへて、まずは日光街道(宇都宮までは奥州街道と兼ねている)を歩くひとり旅が始まる。起点の日本橋から日光までおよそ140kmの距離だ。すでに東海道、中山道、甲州街道(甲州道中)を完歩したので、日本橋は4回目のスタートとなる。いままでと違って距離は短いが、どんな旅になるだろうか。
 日本橋三越までは中山道と同じ道だが、千疋屋から右折するのが日光街道(日光道中)だ。この近くに明治初期まで270年間つづいた伝馬町牢屋敷(敷地面積2618坪)があった。ちょっと寄り道してみる。いまは十恩公園や大安楽寺があって、牢屋敷跡の面影はない。江戸時代の薄暗い牢屋でどんな苛酷な入牢生活が待ちうけたのだろうか。
 元の街道にもどり横山町問屋街を歩く。ここは江戸時代から各種問屋が軒を並べていたという。現在も衣類、インテリア、バッグなど多くの問屋がある。歩道にいた問屋の人が「丹波屋さんは元禄時代からのキセル問屋だ」と教えてくれた。
 やがて浅草橋(神田川)に着いた。川には何艘もの遊覧船がつながれている。橋の両脇には「浅草見附碑」と「郡代屋敷跡」(幕府直轄領の年貢など管理した役宅)の案内板がある。屋敷跡といっても小さな公園になっている。駒形橋の一角に駒形堂がある。堂の脇の下半分が剥離した「戒殺碑」(1693年建立)には、浅草寺周辺十町余は鳥魚の殺生禁止とある。隅田川にかかる駒形橋から東京スカイツリーがよくみえる。雷門は観光客で賑わっている。
 隅田公園沿いに歩くと、以前、歴史サークルで訪ねた「待乳山聖天」(浅草寺の支院)がある。なぜか大根が供えられている。ここは高台にあり風光明媚な場所だ。歌川広重の浮世絵にも描かれている。境内で開催中の「浮世絵展~待乳山と隅田川~」を鑑賞した。
 旧街道の吉野通りをすすむと南千住駅近くに延命寺・小塚原刑場跡がある。品川の鈴ヶ森と並ぶ江戸の刑場だ。ここには大きな延命地蔵(首切地蔵)がある。隣の千住回向院は寛文7年(1667)に行路病者や刑死者の供養で開いた寺だ。幕末の吉田松陰などの志士や高橋お伝らの墓がある。また蘭学者・杉田玄白らが小塚原の刑死者の解剖に立ち会った。
 さらに歩くと千住大橋がみえてきた。徳川家康が初めて隅田川に橋をかけた。この橋は千住宿の南と北を結び、多くの旅人が行き来した。そのなかに松尾芭蕉がいる。芭蕉は元禄2年(1689)3月、深川を船で発って、隅田川をさかのぼり千住で上陸。この地から奥の細道へ旅立った。日数は約150日、行程は600里余だった。この紀行が元禄15年(1702)刊行の『おくのほそ道』だ。
 足立市場前の旧日光街道を歩くと、通称「ヤッチャバ通り」の家々に木札がめだつ。「元出仲買商・荒屋」「元青物問屋・新大阪屋」「元遠州屋・車屋」「谷清・谷塚屋」などが目につく。江戸の頃より戦前まで、この地から野菜や魚などを神田や京橋などに運んだという。
 もう千住宿だ。天保14年(1843)の「日光道中宿村大概帳」によると、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋55軒、宿内の家数は2370軒、人口は9456人いた。江戸四宿のひとつだ。ちなみに参勤交代の大名は、文政4年(1821)の調査によると、日光街道4、奥州街道37、水戸街道23の計64大名が千住の宿を往来している。
 いま千住の通りを歩いても宿場の面影はない。午後2時すぎ空模様が怪しい。雨が降りだした。「お休み処・千住 街の駅」があったので、なかに入ってしばし雑談。「本陣跡は?」と聞くと、通り過ぎた商店の脇に本陣跡の案内板があるという、もどり確認した。通りには、江戸時代後期の絵馬屋・吉田家、紙問屋・横山家住宅、長屋門の名倉医院などがある。雨で先にすすむかどうか迷う。帰宅するにはまだ早い。もう少し足を延ばすことにした。
 土手に上がり雨の中、荒川の千住新橋を渡った。旧日光街道にある梅島駅(東武伊勢崎線)に午後4時前に到着。ここで一休みして帰宅へ。次回はここから出発の予定だ。


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