朝7時40分、間々田駅をスタート。駅近くに「逢の榎」(間の榎)碑がある。この場所は江戸から18里、日光へ18里とちょうど日光街道の中間点なので、1974年に地元の人が碑を建てた。間々田宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋50軒があった(天保14年)。思川の乙女河岸から米を江戸へ運んだという。いま宿場の面影はないが、「間々田問屋場跡」(人馬継立業務を取り扱う)や本陣跡の案内板がある。
国道4号を離れて、天平年間(8世紀)の創建といわれる間々田八幡宮を訪ねた。広い境内(約2万坪)には二つの池やコナラや杉などの森になっている。この地では400年前から伝わる「ジャガマイタ」(蛇まつり)が毎年5月5日に行われるという。境内には文化10年(1813)奉納のユニークな狛犬もある。
さらに旧道を歩くと、千駄塚古墳(栃木県史跡)がある。6世紀頃の古墳は、直径70m、高さ10mで墳頂には浅間神社がある。訪ねたとき大工さんが二人いて本殿を修理していた。古墳前の道をすすむとやがて長い参道の安房神社に到着。ここの神社も歴史がありそうだ。境内にはモミの群落(市の天然記念物)がみられる。
国道にもどり小山駅方面へ数キロ歩く。やがて左側に須賀神社がある。神社には七五三を祝う家族づれが多い。千歳飴をもった子どもたちが写真に納まっていた。須賀神社には承応2年(1653)建立の石造鳥居がある。この鳥居には「天下泰平・国土安全・荘内豊饒・諸人快楽」を祈願した銘文が刻まれている。栃木県内では日光東照宮の四基の鳥居につぐ古さだ。近くの愛宕神社には樹齢600年以上といわれる大ケヤキがある。現在の樹形は1913年の大火により樹冠が類焼、樹幹上部は欠いているが、若い枝が密集している。
小山市役所前に「史跡 小山評定跡」の碑がある。「慶長5年(1600)、会津の上杉景勝征伐に進軍してきた徳川家康は、小山に布陣中、伏見城からの使者を迎えた。石田三成の伏見城攻めを知った家康は武将らを小山に集め軍議を開く。これが後に言う小山評定である。評定の結果会津攻めは中止し西上、関ケ原での勝利に繋がった(市役所HPより)」。なお軍議が開かれた場所はいまだ不確定だ。市役所北側の小山御殿広場では「栃木県のご当地グルメ」を開催中、多くのお店が出店していた。また子どもたちのチアダンスなどのイベントがあった。
12番目の小山宿は本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋74軒、宿人口は1392人(天保14年)がいた。脇本陣跡などあるが、宿場の面影はまったくない。小山駅近くで昼食。
JR両毛線を渡ると左側に薬師堂がある。以前は喜沢の追分にあったという享保3年(1718)の地蔵尊だ。台座には道標を兼ねて、「左へ日光海道」「右へ奥州海道」とある。幕府は正徳6年(1716)に街道の名称を日光道中、奥州道中と変えているが、幕府のお触れは徹底していなかったのだろう。
喜沢の追分を右にすすむとJR宇都宮線沿いの狭い道を歩く。やがて左側に一里塚らしい塚がある。なんの標識もなく、ご近所の人に聞くと、ここが「喜沢の一里塚」だという。やがて国道4号にでる。
ここはもう新田宿だ。小山から5~6km位だろうか。新田宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋11軒、宿内人口は244人という小さな宿場だった。本陣跡は青木家の門があるところだ。道路の塀に「奥州道中・大町新田宿 金枡屋」「幕府代官陣屋跡」などの文字が目についたが、宿場の面影はない。「奥州道中」とあるので「エッ?」と思ったが、日本橋から宇都宮宿まで日光道中と奥州道中は同じだから不思議ではない。
午後4時すぎ、雲行きがあやしい。やがて国指定史跡の「小金井一里塚」がみえてきた。江戸から22里目(約88km)で、日光街道では両塚の一里塚は珍しい。開発が著しい関東平野のなかでよく残ったと思う。当時、塚は五間四方の四角形に築かれたが、いまは形が崩れて円形化している。中山道を旅したとき(2015年8月)、瑞浪市の大湫宿から細久手宿の山中で一里塚の原形を三カ所もみたことがある。あのときの感動は今回起きなかった。
午後4時半、近くのJR小金井駅(下野市)から宿泊先へ。明日は宇都宮まで歩く予定だ。