きょうの白河の天気は雪、気温は「-3/1℃」。急速に天気が変わっている。事前の予報では雪マークはなかった。しかし午前7時50分の白坂駅前は雪の原。雪のなかを歩くのは中山道・吹雪の鈴鹿峠を越えたとき以来だ。どんな一日になるのだろうか。
路傍のお地蔵さんも雪をかぶっている。雪の峠を越えると街中にでた。白河市九番町には「戦死墓」の碑がある。この地の背後は稲荷山の小丘で、慶応4年(1868)の戊申戦争の戦場(白河口の戦い)であった。奥羽諸藩の東軍・会津、仙台、棚倉の兵と薩長大垣等の西軍との激戦地。戦死者数知れず、東軍は撤退、小峰城はついに落城した。
さらにすすむと天神町交差点についた。階段を上ると天神神社がある。境内に俳人正岡子規(1867-1902)の句碑がある。子規は明治28年7月に白河に立ち寄っている。天神町の通りはひっそりとしている。立派な蔵がある。松井薬局の明治時代の建造物群で4棟の蔵、2棟の倉庫がある。白河市の歴史的風致形成建造物に指定されている。市内にはこのように指定された建造物が多くある。
白河宿(宿村大概帳では白川宿)は白河藩10万石の城下町。宿の町並みの長さは31町半(約3500m)、本陣と脇本陣は各1軒、旅籠屋は35軒、宿人口は5959人がいた。大きな宿場だったが、いまは城下町の枡形の道路のほかに宿場の面影はない。
「奥州街道と白河城下」の案内板によると、「城下町は通り五町とよばれた天神町・仲町・本町・横町・田町を中心として南東側に裏町が配置されていた。記録によれば、寛文年間(1661-73)の白河城下の町人は7500人余りで、武家人口と合わせた城下の総人口は1万5千人と推定される。福島県内では会津若松城下に次ぐ規模」と書かれている。
ちょっと寄り道して「白河ハリストス正教会聖堂」を訪ねた。この聖堂は大正3年(1914)に着工された古い洋風建築だ。この近くに白河市役所がある。現在の白河市の人口は6万1228人がいる。「広報しらかわ」12月号はA5版で28頁もある。多くの情報が載っている。
白河駅は大正時代の木造駅舎。駅の反対側に小峰城跡がある。この城は室町時代に結城氏の本城となり、寛永4年(1627)に丹羽長重が初代白河藩主となった。戊申戦争では小峰城内の建物は焼失した。いまに残る石垣の積み方は何種類かみられる。石垣は東日本大震災で10箇所にわたり大きく崩落した。
石垣の復旧工事をしているが、寒い雪のなか復元した三重櫓(ヤグラ)を見学した。受付の人は、暖房は小さな電気ストーブだけというなかにいた。吹きさらしの受付だ。雪のなか見学者は、ぼくだけだった。木造の三重櫓の急階段を上った。とても寒く外は雪景色だ。
街道にもどり皇徳寺にある小原庄助の墓を訪ねた。あの会津磐梯山の唄で知られるあの人か、と。墓地の奥に「会津塗師久五郎(伝小原庄助)の墓」があった。徳利に盃をかぶせたような墓。安政5年に白河で亡くなった辞世の句「朝によし 昼になおよし晩によし……」とある。この酒好きを思わせる墓石。会津磐梯山の唄にでてくる小原庄助さんは架空の人物だろう。
本町交差点で左に曲がらず直進してしまった。どうも道がおかしい。元にもどり「白河だるま」のお店に寄って、記念に小さなだるまを買った。さらに東北で北上川に次ぐ長さの阿武隈川(239km)を渡った。道中奉行が管轄した奥州街道の女石まであと少しだ。
峠を下ると左側に「仙台藩士戊申戦没之碑」がある。ここは会津街道(国道294号)と奥州街道(国道4号)の分岐点だ。ついに午後3時半にゴール。雪のなかを歩く人はいない。奥州街道のゴール地点の案内板も目印もない。分岐点の右の道は須賀川、郡山、仙台等へと旧奥州街道はつづく。宇都宮からゴールまでぼくの歩数計は、約126kmになった。
◆これで江戸時代の道中奉行が管轄した五街道(東海道、中山道、甲州道中、日光道中、奥州道中)の旅は終わった。日本橋から東海道をスタートしたのは2014年9月11日。あれから3年3ヵ月で五街道を踏破したことになる。人生70代前半のひとり旅であった。妻から「五街道完歩おめでとうございます。長い道のりでしたが、さすがですね。」とメールが届いた。