旅日記

12月26日(火)芦野→白坂へ 20.7km

 黒田原駅からのバス便がなく芦野仲町までタクシーを利用した。午前9時スタート。まず旗本・芦野氏19代の資俊から27代資原までの新墳墓がある建中寺を訪ねた。資俊が元禄5年(1692)に没してから資原死去の安政4年(1857)までの165年間の当主や夫人・子女等の墓碑22基が並んでいる。
 芦野宿の町はずれに新町地蔵尊がある。享保2年(1717)の造立で、開眼の導師は建中寺の住職であった。隣には二十三夜塔がある。
 奈良川を渡ると、国指定名勝「遊行柳」がみえてきた。田んぼ奥の山間に「遊行柳」はある。この地は室町時代の文明3年(1471)頃、時宗19世尊酷上人が訪ねて、能楽や謡曲に取り上げられた名所。また松尾芭蕉が元禄12年(1689)に訪ねている。芭蕉の「田一枚 植えて立ち去る 柳かな」の句碑がある。柳の大木の他に、奥には上の宮湯泉神社の大イチョウ(推定樹齢400年、樹高35m)がある。イチョウの木から乳房のようにこぶが何本も垂れ下がっている。あの乳房は大木だからできるのだろうか?
 旧道に入ると、「べこ石」の石碑がある。この碑は嘉永10年(1848)芦野宿の問屋を務めた戸村忠怒が孝行の大切さと善行のすすめなど実例や例えを用いて人の道を教えている、長文の碑文だ。風化して何が書かれているか判読できない。
 板屋地区に「町営バス」と「スクールバス」の停留所がある。学校までどのくらいの距離があるのだろうか。板屋の坂を上ると、日本橋から44里目の「板屋の一里塚」。看板はあるが、どこが塚跡かはよくわからない。さらにすすむと路傍には馬頭観音、石塔、地蔵尊などがある。
 與楽寺をすぎると「泉田の一里塚」がみえてきた。那須町の一里塚は三カ所(夫婦石、板屋、泉田)あるが、ここは整備された一里塚だ。このあたりは二十三夜塔や石塔がよく目につく。文久元年(1861)の道標には「足尾山 旅行安全」の文字が彫られている。
やがて左手に「明神の地蔵様」がみえてきた。小高いところにひときわ大きな地蔵尊がある。急な階段を両手つきながらこわごわ上った。よくみると左手の「奉造立」の碑に延享3年(1746)とある。
 少し歩くと、「境の明神」(陸奥国と下野国の境に二つの神社)がみえてきた。那須町指定史跡の解説板によると「玉津島神社とよばれ、奥羽側の住吉神社と並立している。創立は古く、天喜元年(1053)紀州和歌浦の玉津島神社の分霊勧請と伝えられている。‥‥起源は峠神として生まれた」とある。ちなみに陸奥側(白河市側)は玉津島神社と呼び、下野側(那須町)を住吉神社と呼んでいる。神社の呼び方は逆だ。
 玉津島神社・女神は内(国を守る)、住吉神社・男神は外(外敵を防ぐ)という国境信仰があるからだという。いずれにしても、旅人はこの神社で道中の安全を祈願し、それぞれの国に入った。
 街道をすすむと「戊申戦役旧大垣藩士」の碑がみえた。案内板によると「慶応4年(1868)5月26日、白坂を警護していた大垣藩士らは奥羽越列藩同盟軍の襲撃を受けた。酒井元之丞も応戦したが被弾して戦死した」とある。
 白坂宿(白河市)に入ってきた。天保14年(1843)の「宿村大概帳」によると、白坂宿の町並みは約500m、本陣と脇本陣が各1軒、旅籠屋は27軒、宿人口は289人がいた。いまは宿場の面影はない。観音寺に「大平八郎の墓」がある。白坂生まれで、戊辰戦争では西軍に属した。功労により鎮台からピストルなどを下賜、明治3年に斬殺されたという。
 路傍には馬頭観音などがある。峠を越えて道は下り坂になる。やがて皮籠(かわご)交差点についた。左に曲がると無人駅のJR白坂駅がある。新白河駅まで一駅だが、列車は発車したばかりだった。次の列車は一時間後。
 駅近くに「アウシュヴィッツ平和博物館」の看板がある。小高い丘に上がると、予想以上に広い敷地に博物館があった。だが残念、12月26日から年末年始の休館日とある。敷地内に貨車2両がおいてある。これをみて鮮明に「アウシュヴッツ・ビルケナウ強制・絶滅収容所」(ポーランド)を訪ねたときを思いだした。収容所近くのオシフィエンチ駅隣りの小さなホテルは元鉄道員の宿舎。ちょろちょろのシャワー、テレビも電話もない暗い室内だった。裏は夜中でも貨車が走っている。この線路を使ってヨーロッパ各地から何万、何十万の人間が貨物列車で強制・絶滅収容所へ連れられてきた……。
 16:42発の白坂駅からの乗客はぼくだけだった。きょうの宿は新白河駅前のビジネスホテル。明日は「曇りのち晴れ」の天気予報だ。


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