旅日記

9月25日(月)千住→草加→越ケ谷へ 21.7km

 朝7時半、梅島駅改札前(足立区)の旧日光街道をスタート。きょうは天気がよさそうだ。商店街を歩くと左側の奥に2代将軍徳川秀忠、3代将軍家光が巡遊の折の御膳所となった国土安穏寺がある。立派な門には「天下長久山」の額がある。
 さらにすすむと足立清掃工場の大きな煙突がみえてきた。狭い毛長川を渡ると埼玉県草加市に入る。しばらく歩くと寛永4年(1627)開基という小さな富士浅間神社がある。江戸時代は富士講が多くあったので地元の人たちが造営したのだろう。
 近くの交差点脇に「火あぶり地蔵」がある。いまは立派な祠に地蔵尊がおかれている。伝説によると、奉公していた娘が実家の母親が大病しても帰宅が許されず、火事になれば帰されると思い、奉公先の家に放火して、その罪で火あぶりの刑になったという。なお、この地蔵尊は「日光道中分間延絵図」にも描かれている。
 草加といえば「草加せんべい」が有名だ。慶応元年創業の「いけだ屋」に入ってみた。お店にはいろいろな「せんべい」が売られている。おみやげに「手焼き」を買った。しばし雑談していると、お店の人が「だんご状のせんべい」を食べてとだしてくれた。せんべいを焼く前の串状のもの。やわらかく甘い味だ。
 やがて草加市役所に着いた。このあたりは草加宿だったが、いまや宿場の面影はない。天保14年(1843)の「日光道中宿村大概帳」によると、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋67軒、家数723軒、人口は3619人、町並みは12町(約1.3km)あった。本陣跡の案内板には「この本陣には会津藩、仙台藩、盛岡藩、米沢藩の大名が休泊した記録がある」とあり、昭和初期にはまだ塀の一部が残っていたという。
 草加宿の祖・大川図書が慶長11年(1606)に創建した東福寺を訪ねて、さらに歩く。旧日光街道は丁字路で綾瀬川沿いにある札場河岸公園にぶつかる。ここから草加松原(国指定名勝・おくのほそ道の風景地)が綾瀬川沿いに約1.5kmつづく。
 公園には松尾芭蕉の旅姿の像がある。解説板には「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。船の上に生涯をうかべ、馬の口をとらへて老をむかふる者は、日々旅にして、‥…」(『おくのほそ道』序文)もある。芭蕉は46歳、門人の河合曽良をつれての旅立ちだ。46歳にして早や老境だが、芭蕉は50歳で亡くなっている。ぼくが東海道53次の旅(2015年1月30日)で、近江(滋賀県)の義仲寺を訪ねたとき、木曽義仲の隣に芭蕉の墓があった。芭蕉の門人が「木曽殿と背中合わせの寒さかな」という句をよんでいる。
 矢立橋を渡ると草加松原がつづく。小冊子『日光街道 埼玉六宿』をみると、綾瀬川に沿って、いま634本の松があるという。この草加松原は2014年3月、国の名勝に指定された。草加松原は「一説では、寛永7年(1630)の草加宿開宿時、または天和3年(1683)の綾瀬川改修時に松が植えられたと伝えられ、江戸時代から日光街道の名所として知られてきた…。明治維新前後まで約500本あったが、道路拡張や公害で、昭和40年代には70本程度までになってしまった」(解説板)という。よくぞここまで整備されたと思う。
 松原を過ぎて蒲生大橋で綾瀬川を渡る。この橋が草加市と越谷市の境だ。橋を渡ると「蒲生の一里塚」(東塚のみ)がある。日光街道では埼玉県に残る唯一の一里塚だという。「あれが一里塚跡なの?」と思うほど、県指定史跡の案内板がなければ見過ごしてしまう。
 やがて国道と合流、ひたすら歩くとJR武蔵野線(南越谷駅)のガードをくぐり越谷駅(東武伊勢崎線)に近づく。途中、清蔵院の江戸時代初期の山門を見学。通りには蔵のある古い商家(小泉家)などがある。越谷駅近くの瓦曽根あたりから越ケ谷宿があった。天保14年(1848)の「宿村大概帳」によると、越ケ谷宿は本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠屋52軒、家数1005軒、人口4603人がいた大きな宿場だ。町並みは明治時代の2回の大火でほとんどが焼失して、いまや面影がない。やっと福井本陣(いま個人宅)があった所を探しあてたが、なんの説明板もなく、ちょっとさみしい感じがする。
 北越谷駅近くの香取神社に寄ってみた。素朴な狛犬があって、本殿(慶応2年建造)には四面の外壁に彫刻が施されている。大黒天、龍などが施されているが、北側の面には、紺屋の労働作業のありさまが刻まれている。当時、越谷大沢は紺屋業が盛んだった。これは珍しい。夕方5時すぎ、北越谷駅から帰宅へ。次回はここから歩く予定だ。


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