旅日記

10月25日(水)杉戸→幸手→栗橋へ 22.0km

 まだ暗い朝の5時半、自宅をでるといやな雨だ。数日前の天気予報では「曇りのち晴れ」だった。今年の秋は雨の連続。ひょっとすると一日中雨かも知れない。7時40分、杉戸宿の本陣跡地前をスタート。宝性院あたりは杉戸宿の面影をのこす古い町並みがある。国道4号にでて、しばらく歩くと大島交差点近くの稲荷神社の脇に埼玉県指定史跡「恭倹舎」(大島有隣遺跡)の建物がある。ここは大島村の心学者・大島有隣らが天明5年(1785)に創建した心学(一種の庶民教育)の学び舎だ。
 国道4号にもどりひたすら杉戸高野台駅方面へ歩く。国道をわかれ東武日光線の踏切を渡り、稲を刈りとった田んぼをみながら幸手市に入る。突き当りにスーパー・ベルクがある。丁字路の左は将軍の日光社参の道(日光御成道)だ。将軍の日光社参の道は、江戸城を出発して川口、鳩ケ谷を経て岩槻城で宿泊、二日目は幸手のこの場所で日光道中と合流した。スーパー左奥に天保11年(1840)創業の石井酒造がある。お店に入って、幸手宿のパンフレットをいただいた。その昔は広い敷地だったという。
 しばらく歩くと志手橋がある。ここらが幸手宿の南端付近だ。近くにある大屋根の古民家カフェは、醤油醸造業を営んでいた岸本家住宅(国登録有形文化財)だ。幸手宿は「宿村大概帳」(天保14年)によると、長さ9町45間(約1km)、本陣1軒、脇本陣なし、旅籠屋27軒、家数962軒、人口3937人という大きな宿場だった。
 問屋場跡の解説板によると「幸手宿の問屋場は公用私用を問わず旅人の世話・荷物の運搬などを管理した。問屋場役は、問屋4人、年寄8人、帖付4人、馬指4人、見習1人、月行事4人の総勢25人」がいたという。本陣(知久家)は、問屋、名主の三役を兼ねていた。
いま宿場の面影はほとんど残っていない。
 歴代将軍の日光社参の時や天皇の例幣使が休憩した聖福寺に寄ってみた。立派な勅使門(唐門)がある。将軍の間、例幣使の間などがある。寺は朱印状により十石を賜った。近くにある正福寺にも寄った。境内には、県指定史跡の「義賑窮餓之碑」がある。天明3年(1783)浅間山が大噴火したため灰が降り、冷害も重なって大飢饉となった。このとき幸手宿の有志21人が金品をだしあって助けた。この善行を記念して、当時の関東郡代(伊那忠尊)が石碑を建てた。
 近くのスーパーで昼食・休憩した後、雨のなか寄り道して権現堂堤に足を運んだ。1キロ余つづく堤は桜まつりでにぎわうという。雨で寒くなり堤の上にある茶屋で休憩した。もともとこの権現堂堤は利根川の本流または支流であった権現堂川の氾濫を守るために天正4年(1576)頃に築かれた。しかし明治以降の利根川改修で堤の重要性は薄らいだ。
 堤を下って行幸橋を渡る。雨降るなか、まわりは畑の静かな住宅地を歩く。やがて道標が目についた。解説板には「安永4年(1775)日光街道と筑波道が分かれるこの場所に建てられた」とある。道標には「左日光道」「右つくば道」等と書かれている。
 さらに国道4号土手下の狭い道を歩くと「小右衛門一里塚跡」がある。この塚の上には、昭和初期に付近から移築した弁財天堂が建てられている。国道下のトンネルをくぐると大平橋がある。ここから権現堂調節池(行幸湖)がよく見える。マンホールをみると「くりはし」になっている。しばらくいくと「焙烙地蔵」があった。関所破りは重罪人として火あぶりの刑に処せられた。その供養のために祀ったという。すでに午後4時半、うす暗くなってきた。雨のなか急ぎJR栗橋駅にむかった。今晩はJR古河駅近くのビジネスホテルに宿泊予定だ。


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