旅日記

10月26日(木)栗橋→中田→古河→野木→間々田へ 26.7km

 電車で一駅の栗橋駅へ。きょうは昨日とちがって快晴だ。午前7時半、栗橋駅スタート。駅前に静御前の墓がある。源義経の内妻・静御前は義経を追って平泉にむかう途中、この地で亡くなったという。静御前終焉の地は、全国数カ所に伝承があるようだ。
 昨日の「駅入口」交差点から日光街道を歩くと、なにやら高い網が張られ工事中のような場所がある。利根川の堤防工事に伴う栗橋宿の西本陣跡の発掘調査の現場だ。2017年9月15日付の朝日新聞(埼玉版)に「栗橋宿 浮かぶ江戸期の生活」と大きく発掘調査のニュースがあった。県埋蔵文化財調査事業団が2012年から宿跡など約3.2haを発掘している。発掘で宿場の遺構や陶磁器など多数出土したという。街道を歩いて、どこが栗橋宿なのか歩いてもわからない。「なるほど、この周辺が宿場だったのか」と納得した。
 栗橋宿は天保14年(1843)の「宿村大概帳」では、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋25軒、宿の家数404軒、宿内人口は1741人の宿場で、栗橋宿と中田宿の人馬引継ぎ業務は、毎月15日ずつ交代の合宿(甲州街道には多くある)をとった。利根川は架橋禁止なので渡船場から中田宿にむかった。だが将軍が日光東照宮へ社参する時は、臨時の船橋がかけられた。また日光街道唯一の栗橋関所があった。近くの八坂神社の拝殿前には、狛犬ならぬ「狛鯉」が対でみられる。残念、栗橋関所碑を探したが‥‥。
 土手を上り朝もやの利根川橋を渡る。距離は600m以上あるだろうか。橋の途中から茨城県古河市の標識がある。対岸の中田に着いた。江戸時代の利根川には橋はなく、将軍の日光社参のときは、利根川に舟橋をつくり通過した。江戸時代の中田宿は、利根川橋の下、利根川に面して現在は河川敷となった所にあった。中田は再三の移転を経て、現在の町並みは利根川の改修工事からだという。中田宿は本陣と脇本陣各1軒、旅籠屋6軒という小さな宿場だった。
 午前8時半すぎ近くの鶴峯八幡宮を参拝した。参拝していたご近所の人に記念写真をお願いした。茶屋新田から両側に松並木が植えられている。解説板には「江戸時代は中田の松原と呼ばれ、北へ古河の原町入口までの約1里」つづいたという。いまの松は若い木だが数十年もすれば見事な松並木に変身するだろう。最初の松並木は寛永7年(1630)に植えたというから400年近くの歴史がある。
 ひたすら数キロ歩いて浄善寺にやっと着いた。この寺には推定樹齢350年以上のイチョウの木がある。ちょっと寄り道して古河市役所古河庁舎を訪ねた。生涯学習課で古河宿の資料があるか尋ねたが、期待にそえるものはなかった。
 もとにもどり古河市の御茶屋口へ。徳川将軍家の日光社参時の二日目の宿は古河城だ。ちなみに将軍家の日光社参は19回あった。将軍の古河入城に利用された御成門への入口がこの御茶屋口。古河は城下町であり宿場町でもあった。古河城は明治時代になると廃城となり、城跡が徹底的に破壊されてしまった。楽しみにしていた古河歴史博物館はあいにく休館日だった。
 古河市の日光街道沿いには常夜灯型の「古河史跡案内板」が目につき、宿場のふんいきをかもしだしている。市内には江戸時代の貴重な文化財がある。正定寺には古河城主の土井利勝や土井家歴代の墓所、また近くには古河藩初代城主が開基した隆岩寺などがある。古河駅近くに、常夜灯形式の古河宿道標がある。この道標は文久元年(1861)に建てられ「右筑波道」「左日光道」とある。大きくて立派な道標だ。よこまち柳通りには古い商家がある。
 野木方面へ歩くと、右側に塩滑地蔵がある。体の悪いところに塩をぬると効があるという。いつのまにか野木宿(栃木県)に入ってきた。古河宿から3km弱の宿場だ。天保14年の「宿村大概帳」によると、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋25軒、宿人口は527人がいた。だが、いまはまったく宿場の面影はない。すでに午後3時をすぎた。この季節、日が暮れるのは早い。古い道標が目に入ってきた。この道標は日光山への脇往還入口に建てられて、うかい路を示す道案内だという。「是より大平山道」とある。
 野木駅近くの友沼交差点から左にまわって松原大橋へ寄り道した。広い川幅だが思川(下流は渡良瀬川)の流れは意外と狭い。もとにもどり、ひたすら街道を歩く。途中の友沼八幡神社は、将軍家の日光社参のための休憩所跡であった。国道の標識には「東京から70km」とある。予定では小山宿までめざしていたが、すでに夕方5時すぎで暗い。日光街道沿いにあるJR間々田駅から帰宅へ。


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