旅日記

12月19日(火)佐久山→大田原→鍋掛へ 23.3km

 野崎駅からタクシーで佐久山へ。午前8時40分、バス停佐久山下町からスタート。左手に八木澤家の門がある。門脇には「運用膏」(傷薬)の看板があり、戦前まで膏薬を製造していた。戊辰戦争のときに薩摩兵が使用したという。近くの大日堂に寄ってみた。堂内には江戸時代の木造の不動明王像が安置されている。境内には、たんこぶができている県指定の大ケヤキがある。推定樹齢は800年、目通り7.5mとある。
 宿村大概帳によると、佐久山宿は本陣・脇本陣が各1軒、旅籠屋27軒、宿人口は473人がいた。いまは宿場の面影はない。枡形の突きあたりに天明元年(1781)から酒造業を始めた島崎酒造がある。玄関には銘酒の「友白髪」の古い看板がかかっている。隣の正浄寺に芭蕉の碑があるが石が風化して判読はむつかしい。
 箒川の岩井橋をわたると左手に馬頭観音が数基ある。その先の田谷川に聖徳太子碑がある。小さな川だが水は澄み水草がゆれている。この川に栃木県指定の天然記念物・糸魚(イトヨ)が生息している。イトヨは体長3~5cm、背びれは3本のトゲになっている。俗名はトゲウオとかオコゼという。同じ仲間だろうか、以前歩いた中山道の醒井宿(滋賀県)に生息しているハリヨ(淡水魚)も滋賀県の天然記念物に指定されていた。
 さらに歩くと右側に大きな松の木がみえてきた。「与一の里名木選」(大田原市)の解説板には樹齢約200年とある。手入れが行きとどいた赤松だ。近くの湯殿神社に「史跡・蒲盧(ほろ)碑」がある。さらに小さな石に「町初寛永4年」とある。
 この後は旧陸羽街道を数キロひたすら歩く。道路沿いの川に白いサギが数羽いたが、近づくと大きな羽をひろげて飛んでしまった。やがて神明町交差点に着いた。ここは奥州街道と日光北街道の分岐点で、右にいくと奥州街道だ。この交差点近くに愛宕神社兼公民館がある。洋風な建物だが、神社は文明3年(1471)の創建という古い歴史がある。すぐ東側には薬師堂がある。現在の建物は寛政5年(1793)に大田原庸清により再建された。境内には七重塔がある。全高4.85mの石塔で江戸時代中期の建立だ。
 大田原宿は大田原氏の城下町で、宿村大概帳によると、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠屋は42軒、宿人口は1428人、町並みは15町余(約1600m)があった。大きい宿場だったが、いまはその面影はない。通りに弓を持った那須与一の像がある。「屋島の戦い」で平家の扇の的を落とした那須与一は下野国那須生まれ。大田原市は那須氏のゆかりの地といえる。
 大田原氏の菩提寺である光真寺に寄った。歴代藩主の墓がずらりと並んでいる。近くの大田原城跡(龍城公園)も訪ねた。小高い丘に天文14年(1545)大田原資清によって築城され、明治4年(1871)の廃藩置県に至るまで大田原氏の居城であった。寒い午後、人のいない城跡だった。
 蛇尾川を渡ると、やがて「中田原の一里塚」がみえてきた。この一里塚は大田原市の史跡だが、宅地建設で南側は取り壊され、北側は道路拡幅で平成12年(2000)に数メートル移動された。だが、ほとんど原形は残していない。しばらく歩くと、市野沢小入口交差点で奥州街道と棚倉街道の分岐点に道標がある。正面に「左奥州道」、「右たなくら道」、左側面に「南無阿弥陀仏」とあり、元禄4年(1691)の建立とある。
 この先は峠を上ったり下ったり歩く。やがて那須塩原市の市境についた。さらにひたすら歩くと、バス停野間十文字がある。すでに午後4時すぎ、あたりはだんだん暗くなってきた。ゆーバス(那須塩原市地域バス)の時刻表をみると次は17:22分とある。出費は多いが、タクシーを呼んで黒磯駅にむかった。きょうの宿泊先は那須塩原駅前のビジネスホテルだ。


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